日本の神道の“原初的な感覚”って、もしかして「悪魔崇拝」に見える?――神さまと妖怪、そのあいだの不思議な距離感

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日本の神道の“原初的な感覚”って、もしかして「悪魔崇拝」に見える?――神さまと妖怪、そのあいだの不思議な距離感

こんにちは、お祭りライターのカワグチです。日本では、自然は暮らしを支えてくれる一方で、人の力では抗えない怖さを持つ存在として受け止められてきました。雨が降れば助かるけど、降りすぎれば困る。海や山は恵みをくれるけれど、簡単に人を飲み込む。そうした「人々にはコントロールできない力」を、神さまとして感じてきたことが、日本の信仰の重要な背景のひとつといえるでしょう。この記事では、日本に古くから伝わる神々への信仰が、海外からどう見えるかを手がかりに日本の祭祀について再考していきます。

「日本の神さまって、なんだか怖くない?」

海外の知人にそう言われて、ドキッとしたことがあります。祟り(たたり)があるとか、怒るとか、荒ぶるとか。たしかに、キリスト教文化圏の人から見ると、日本の神道は「優しい神さま」というイメージからは少し外れて見えるのかもしれません。では、日本の神道は本当に“悪魔崇拝(悪魔信仰)”のように映るのでしょうか? そして、神さまと妖怪は、そんなに違う存在なのでしょうか?お祭りの現場を歩いてきた一人のライターとして、そんな素朴な疑問を、やさしくひもといてみたいと思います。

目次

神さまが「怖い」のは、なぜ?

お祭りを取材していると、よく耳にする言葉があります。
「この神さまは、怒らせると怖いんだよ」

たとえば、八坂神社の祇園祭。もともとは疫病(えきびょう)を鎮めるための祭りだと言われています。疫病は、人の命を奪う恐ろしい存在でした。そこで人々は、「疫病そのもの」を悪として排除するのではなく、その背後にある力を“神”として祀り、丁寧にもてなすことで、機嫌を取ろうとしたのです。

ここが、西洋的な善悪観と大きく違うところかもしれません。
キリスト教的な世界観では、「神=絶対的に善」「悪=神に敵対するもの」と、わりと線がはっきり引かれます。一方、日本の神道では、「人に恵みをもたらす力」も「人に害をなす力」も、同じ自然の中から生まれてくるものとして受け止められてきました。

だからこそ、日本の神さまは「優しいだけ」ではありません。荒ぶるし、怒るし、場合によっては祟りとして人々に災いをもたらすこともあるでしょう。けれどそれは、「悪」だからではなく、「人間の都合ではコントロールできない存在」だからだと感じる人が多いようです。

神と妖怪は紙一重?

『肥後国海中の怪(アマビエの図)』(京都大学附属図書館所蔵)
Photograph courtesy of the Main Library, Kyoto University - Amabie
『肥後国海中の怪(アマビエの図)』(京都大学附属図書館所蔵)
Photograph courtesy of the Main Library, Kyoto University – Amabie

読者の皆さまにとって、疫病封じの妖怪として知られる「アマビエ」が、コロナ禍における護符的な存在としてブームになったことは記憶に新しいでしょう。

「じゃあ、神さまと妖怪って、何が違うの?」
これも、よく聞かれる質問です。

たとえば、天狗。山に住み、人を惑わす存在として恐れられてきましたが、一方で、修験道(山で修行する信仰)の守護者として祀られることもあります。地域によっては、立派に神社のご神体になっているところもあります。

河童もそうです。子どもを川に引きずり込む怖い存在として語られる一方で、水の神として祀られ、田んぼを守る存在として大切にされてきました。

現場を歩いていると、「最初は妖怪みたいに怖がられていたけれど、いつの間にか神さまになった」という伝承に、何度も出会います。つまり、神と妖怪の違いは、「本質」よりも「人との付き合い方」と捉える見方がある、と言えるのかもしれません。

怖いけれど、無視できない。
害をもたらすけれど、恵みもある。
そうした存在を、日本人は「なかったこと」にせず、名前をつけ、物語を与え、祀ってきました。その結果、妖怪と神さまのあいだには、どうしてもグラデーションが生まれるのです。

「祟り」は罰ではなく、サイン?

筆者が取材の中で耳にした限りでは、西洋の人が日本の信仰を“悪魔的”と感じる理由の一つに、「祟り」の存在があるようです。何か悪いことが起きると、「あの神さまの祟りだ」と考える。これはたしかに、「神は人を救う存在」というイメージとは合わないかもしれません。

でも、日本の感覚では、祟りは必ずしも「罰」ではありません。どちらかというと、「関係が壊れていますよ」というサインに近いものとして受け止められてきました。

お祭りは、その関係を修復する場でもあります。社(やしろ)や祠(ほこら)を掃除し、神輿を担ぎ、音楽を鳴らし、みんなで笑う。そうやって、「ちゃんと気にかけていますよ」「一緒に生きていますよ」と伝える。その結果、祟りが鎮まり、恵みが戻ってくる――そう信じられてきました。

善か悪か、天使か悪魔か、という二択ではなく、「どう付き合うか」が大事。この発想自体が、西洋的な価値観とは少し違って見えるのかもしれません。

自然は、味方でもあり、敵でもある

災害と家屋の倒壊

神道の根っこには、自然への強い畏れ(おそれ)があります。山、川、海、雨、大地。どれも人々の命を支える一方で、嵐や地震がおきれば人々の命を簡単に奪ってしまう力を持っています。

お祭りの多くは、豊作祈願や雨乞い、災害除けと結びついています。つまり、「自然に勝つ」ためではなく、「自然と折り合いをつける」ための知恵として生まれてきました。

この「畏れるけれど、切り離さない」という態度が、西洋の人には「なぜ悪いものを祀るの?」と不思議に映ることがあります。けれど、日本的には、「怖いからこそ、ちゃんと向き合う」だけなのです。

まとめ

神道は、たしかに西洋の善悪二元論から見ると、少し不気味で、あいまいで、ときには“悪魔崇拝”のように映るのかもしれません。けれど実際には、「怖いものを排除しない」「理解できない力とも関係を結ぶ」という、とても現実的で人間くさい知恵が詰まっている、そうした側面があります。

神さまと妖怪が紙一重なのも、その延長線上にあります。どちらも、自然や社会の中で人が出会ってきた自然災害や疫病、社会不安といった「説明しきれない力」の別の顔なのです。

お祭りは、その力と対話するための、にぎやかで楽しい方法。そう思って神社や祭りを眺めてみると、日本の神さまたちが、ちょっと身近で、ちょっと面白く見えてくるかもしれません。

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この記事を書いた人

1969年,東京生まれ。お祭りライター。目標は,ダイエットと,ITリテラシーを高めること。

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